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2020年12月

2020年12月30日 (水)

寂しい年越し

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1年間実家に帰ることが出来なかったので

正月くらいは・・・ と、

多忙な仕事の傍ら思い悩んでいたが、

名古屋に近い岐阜の数字も中々に大きく、

状況は悪くなるばかり。

 

そして、

立て続けの葬儀で余りにも多くの人と交わった事がとどめとなり

帰省は諦めた。

自分の健康状態には

二週間くらい不安が残る。

 

幸い岐阜の家族は皆息災なようだが、

私の両親も既に高齢で

いつ何があってもおかしくない、注意が必要な年齢層となっているので、

1回1回の帰省が大切なのと同じくらい、

コロナを運んでしまってはならないとの思いも。

 

 

生まれ育った故郷の、郷愁の拠り所の様なあのお宮さんに

参らない正月なんて

人生で初めてだ。

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本当に良い年が来ますようにと

これほど真剣に祈りたい正月も無いであろうに、

大切な初詣も出来ないなんて、

何とも

心が落ち着かないと言うか、、、

上手く言葉にできない気持ちでおります。

 

 

とりあえず、

住まう場所の縁のお宮さんへ今年も出向き、

お札を戴いてきて

神棚の掃除。

正月準備を行いました。

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本当に、

新年が

良い年でありますように。

     

 

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2020年12月26日 (土)

送る。

 

一週間で二人の葬儀に立ち会いました。

 

参列と言うより、

当事者としてです。

 

 

妻の父が永眠された。

 

彼女からの連絡を受け、

休日出勤だった仕事の現場を途中で切り上げて

一旦帰宅し、

会社へ寄って色々確認や後片付けを済ませてから

飛んで行った。

 

数日前に肺炎を起こし入院していたのだが、

此のご時勢なので

家族ですら病棟に入ることも出来ず、

義母も

今わの際には立ち会えず、

亡くなった後の状態での対面となったそうだ。 

何とも、、、

変な、厄介な時代になったものだ。

辛い本人の傍らに家族が寄り添うことも許されず、

孤独に最後を迎えなければならない。

 

 

妻の実家は農家だった。

大きな頑丈な身体の持ち主で働き者であった義父だったが、

飼い犬の散歩中に転んで脚の骨を折り、

2ヶ月ほど入院する内に

あっという間に痴呆が始まり、

脳梗塞も発症して、

寝たきりとなった。

 

前述の通り

元来頑丈な身体の方であったので、

寝たきりとなってからも10年の時を生きた。

その間介護を続けた義母と義姉には頭が下がる。

義母には

『本当に、長く、お疲れ様でした。』 という気持ちですが、

ご本人は、肩の荷が下りたと言うよりは

憔悴し切っていて、

茫然自失といった感じだった。 

 

子供は三人姉妹の女系家族。

その真ん中が私の妻で、義妹は結婚して関東に住んでおり

男手が足りない。

喪主となった義姉は

気丈に全ての段取りを滞りなくこなしていたが、

自宅から斎場へと棺を運び出すにもギリギリの人数しかおらず、

未だ未成年である私の息子(故人の孫)の手が心強かった。

雪が積もる玄関先、滑って転ばぬようにと、

私と共に

真剣に、一生懸命おじいちゃんの棺を運んだ長男の姿に、

何だか感慨深いものがありました。

 

葬儀屋さんとの打合せを終え、

迷惑を掛ける職場の後輩へ色々連絡の電話を入れ、

金沢住まいの長女を連れ帰る為に夕方の高速に乗った。

とんぼ返りで福井へ戻り、

慌しく時間が過ぎて、、、

通夜~葬儀~

お骨上げまでが済んで火葬場を出た時の、

まるで快晴の空を見上げる様な

あの、何とも言えない清々しいスッキリとした気持ちが

印象的でした。

 

ウチの子(長女)が初孫だった。

その後も含め、義父には本当に我が子達をかわいがってもらい

御世話になりました。

送る儀式の最後まで、箸を持ち骨を拾うところまで

子供達も一緒におこなった。

長女・長男は特に

思うところがあったのでしょう、、、

それが感じられるその後でした。

彼等にとってのその経験は、

義父が最後に残してくれた

大きな大きな

大切な宝物だと思います。

 

 

 

葬儀明け、職場に復帰した翌日の明朝、、、

会社の大御所が息をひきとりました。

 

三年前、癌が見つかり手術を受け、

一旦は回復の兆しが見えたのですが、

その一年後に体調を崩し

再発、転移が判った。

 

 

本人は意思の強い人で、

抗癌剤治療も耐えて積極的に受け、

弱音は吐かなかった。

何度か薬を変え、治験薬も試し

ギリギリまで闘ったのですが、

叶わず

余命宣告を受けてしまった。

治療を止め三ヶ月程でした。

ご家族共々、少しでも穏やかな時間を長くと思っていたのに、

急変し、苦しい最後でした。

 

弱る自分を晒したくなかったのでしょう、

最晩年は人にも会いたがらず

付き合いのある周囲へも

病の事は極力内緒にして欲しいとの

本人の希望だったので、

極近しい者以外へは知らされておらず

葬儀に参集下さった方達の口からは、皆

驚きとショックを隠せない言葉が漏れて

心苦しい、申し訳ない気持ちにもなりました。

 

葬儀委員長的な立場となったので

多くの恩人やゆかりの方に失礼が無いよう、

ちゃんと、最大限の感謝が伝えられるようにと

精一杯務めさせていただきました。

 

私は親族ではありませんが、

恩と縁の深さから

最後の最後、御骨を拾う事も、

その御骨をお寺へ納める法要へも

ご一緒が許して戴けました。

 

 

 

まさか

一週間で二人の御骨を拾う事になるとは

思ってもみなかったので・・・

上手く言葉にできない

何とも言えない気持ちでおります。

 

 

納骨時の、お寺様のお話にもあったのですが、

人生とは、人の一生とはそういうものです。

朝、元気な顔で家を出ても、

晩には白骨となる事もあるのです。

自分自身もそう思い、心掛け、

無駄な時間を過ごさぬよう、

周囲の人達を大切にし、

想い、

生きてゆかねばと思います。

 

 

 

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2020年12月13日 (日)

短日の候

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毎年十二月になると、

仕事のスケジュールが混み合う事と

日の出の遅さが相まって

薄暗い内に現場へと向かうことが増える。

師走だなぁ。。。 と、

実感する時間です。

 

冬が深まるにつれ

北陸は日々時雨模様。

完全に厳冬となってしまえば

鉛色の重い空気に包まれてしまうのですが、

冬の入り口のこの時期は

未だ陽射しも多く、

一年で一番虹が見られる季節です。

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季語としての 『 虹 』 は夏のものですが、

此処北陸では、虹は冬のゲート。

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副虹がはっきり出るのをみられると

何だか、嬉しくなります。

佳い事がありそうで。

 

主虹と副虹の間は

光の反射・屈折が無い関係で周囲より暗い。

この部分は 『 アレキサンダーの暗帯 』 と呼ばれますね。

呼び名は知っていましたが

由来は知らなかったので改めて調べてみたら

古代ギリシャの哲学者 『 アレクサンドロス 』 が

この現象に気付いた、発見した事によるそうですが、

そんなもん、

私も、物心ついた子供の頃から気付いて知っていた。

みんな知ってるでしょ?気付くでしょ? 

何でも、『 人に先んじて発信する 』 ってのが肝心なのかねぇ。

 

 

第3波のこの状況でも

相変わらず、県外への仕事もしばしばあります。

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日々の生活。

周囲の人を護る為に、仕事は停められない。

 

今週は金沢の現場が入り

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丁度午前中で終えられたので、

こちらに住んでいる長女とランチデートが出来ました。

 

今年オープンしたばかりの

港が見渡せるレストランです。

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11時台に入ったので大丈夫でしたが、

かなり人気なようで、直ぐに席が埋まってゆきました。

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ズワイ蟹のパスタ美味しかった~~~。

 

後から隣のボックスに通されたオバサン2人が

めちゃくちゃ喋り捲る2人で、

騒音と、飛沫が心配なのとで、本当に不愉快だったので、

折角の素敵な空間でしたが

食後の余韻を愉しむ事は諦め、早々に退散。

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てか、

作業服でこんなトコ来ちゃって良かったか?(^^;)

オレの方が空気読めてない?(^^;;;;;

今日は調査業務が主で

服は一切汚れていないから、許してね。

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仕事の峠が見えたので、

この週末は久々にちゃんと休みました。

土曜から下茹でを始め、

存分に時間を使って、

日曜の夕飯に合わせて

豚の角煮を作りました。

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最高のツマミで、

最高の晩酌♪

 

料理は、

良いストレス解消になりますね。

『 おいしくなぁ~れ! 』 と過ごすこの時間が、

とても好きです。

 

死にそうだった気持ちが、

やっと少し

上向きになってきました。

 

 

 

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2020年12月 2日 (水)

家族への手当て

 

入社後2年の下っ端だった私が結婚した当時、

自分が所属する小さな会社の上司と対峙して

変えさせた事が

大きく二つある。

 

一つは、

『 有給休暇 』 という概念すら無かった会社に

その制度を創ってもらった事。

これは、私が堂々と新婚旅行へ行く為に

社長に掛け合って許可を貰った事が始まりです。

当時は、

『 三六協定 』 や 『 年間休日105日 』 なんて最低ラインの事すら

会社の経営者がまともに意識していないような時代で、

私が勤める様な小企業では、

歯車が自己都合で休みを貰うなんて事は

相当勇気が要る要求で、

まあ、社員がそんな事上司に言うなんて

在り得ないような空気が存在していた。

 

もう一つの大きな変革が、

給与明細に 『 家族手当 』 を創ってもらった事だ。

この事には、

私自身

大きなこだわりがある。

 

結婚当時、

経理を取り仕切っていた専務(取締役)に

「家族手当は無いのですか?」 と聞くと、

 

「なんでそんなモン必要なんや!?

 お前に家族が出来ようが、そんなもん会社に関係無いやろ。

  嫁さんが会社に来て仕事する訳じゃねぇし、

  結婚したってお前の仕事の能力が変わる訳じゃないやろ。

   第一、どうせ共働きなんやろし、

   なんでそんなモン(手当て)出さなアカンのや。」

と、返された。

あの時の口調も、彼の表情、雰囲気も、

非常にリアルに憶えている。

かなり、相~当~、他人事で

ムカついた言い方だったので。

 

当時から職場は、

連日連夜遅くまで残業したり

翌日の現場都合で早出したりなんてのは当たり前だった。

妻は、

早起きして弁当を作ってくれ、

毎日帰りが遅い夫に代わり家の中の一切をしてくれ、

必然、後には、子育ても妻にその殆どの負担が掛かる事となった。

そんな家族の支えがあるからこそ

会社・仕事というものに対して

社員が存分に力を揮えるのだという事を、

会社の経営者が考えてもいなかった事に、

理解しようとする態度すら無かった事に、

まあ、

立腹し、呆れたものです。

 

それでもそうして、

私の訴えに応じて、

給与明細には家族手当の欄が作ってもらえました。

 

 

三十年近くが経った。

今も尚、

この小さな会社は

連日連夜残業早出でギリギリ回っている。

その事自体は決して誉められた自慢出来る事ではないが、

それでもなんとか続けていられるのは、

ボスが守ってきてくれた伝統でもある

『 残業も休日出勤も100%つける 』 という、当たり前の事が、

内助の功として支えてくれる存在の人を納得させている

というのが、大きな大きな一つの要素であることは

間違いありません。

弊社は、

キツイけど、

ブラック企業ではないんだと思っています。

 

社員を大切にするという事は、

その家族も含めて思うことです。

『 家族手当 』 というのは

金銭的な事だけではなく、

その言葉そのものの意味です。

会社側に、上司に、

その気持ちが在るという事が

本当に大切な事だと思います。

 

 

私はいわゆる

『 現場叩き上げ 』 なので、

仕事というものは

数字上の損得だけではない事をよく知っています。

人の心、気持ちに鈍感な人間は

好きではありません。

 

 

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