送る。
一週間で二人の葬儀に立ち会いました。
参列と言うより、
当事者としてです。
妻の父が永眠された。
彼女からの連絡を受け、
休日出勤だった仕事の現場を途中で切り上げて
一旦帰宅し、
会社へ寄って色々確認や後片付けを済ませてから
飛んで行った。
数日前に肺炎を起こし入院していたのだが、
此のご時勢なので
家族ですら病棟に入ることも出来ず、
義母も
今わの際には立ち会えず、
亡くなった後の状態での対面となったそうだ。
何とも、、、
変な、厄介な時代になったものだ。
辛い本人の傍らに家族が寄り添うことも許されず、
孤独に最後を迎えなければならない。
妻の実家は農家だった。
大きな頑丈な身体の持ち主で働き者であった義父だったが、
飼い犬の散歩中に転んで脚の骨を折り、
2ヶ月ほど入院する内に
あっという間に痴呆が始まり、
脳梗塞も発症して、
寝たきりとなった。
前述の通り
元来頑丈な身体の方であったので、
寝たきりとなってからも10年の時を生きた。
その間介護を続けた義母と義姉には頭が下がる。
義母には
『本当に、長く、お疲れ様でした。』 という気持ちですが、
ご本人は、肩の荷が下りたと言うよりは
憔悴し切っていて、
茫然自失といった感じだった。
子供は三人姉妹の女系家族。
その真ん中が私の妻で、義妹は結婚して関東に住んでおり
男手が足りない。
喪主となった義姉は
気丈に全ての段取りを滞りなくこなしていたが、
自宅から斎場へと棺を運び出すにもギリギリの人数しかおらず、
未だ未成年である私の息子(故人の孫)の手が心強かった。
雪が積もる玄関先、滑って転ばぬようにと、
私と共に
真剣に、一生懸命おじいちゃんの棺を運んだ長男の姿に、
何だか感慨深いものがありました。
葬儀屋さんとの打合せを終え、
迷惑を掛ける職場の後輩へ色々連絡の電話を入れ、
金沢住まいの長女を連れ帰る為に夕方の高速に乗った。
とんぼ返りで福井へ戻り、
慌しく時間が過ぎて、、、
通夜~葬儀~
お骨上げまでが済んで火葬場を出た時の、
まるで快晴の空を見上げる様な
あの、何とも言えない清々しいスッキリとした気持ちが
印象的でした。
ウチの子(長女)が初孫だった。
その後も含め、義父には本当に我が子達をかわいがってもらい
御世話になりました。
送る儀式の最後まで、箸を持ち骨を拾うところまで
子供達も一緒におこなった。
長女・長男は特に
思うところがあったのでしょう、、、
それが感じられるその後でした。
彼等にとってのその経験は、
義父が最後に残してくれた
大きな大きな
大切な宝物だと思います。
葬儀明け、職場に復帰した翌日の明朝、、、
会社の大御所が息をひきとりました。
三年前、癌が見つかり手術を受け、
一旦は回復の兆しが見えたのですが、
その一年後に体調を崩し
再発、転移が判った。
本人は意思の強い人で、
抗癌剤治療も耐えて積極的に受け、
弱音は吐かなかった。
何度か薬を変え、治験薬も試し
ギリギリまで闘ったのですが、
叶わず
余命宣告を受けてしまった。
治療を止め三ヶ月程でした。
ご家族共々、少しでも穏やかな時間を長くと思っていたのに、
急変し、苦しい最後でした。
弱る自分を晒したくなかったのでしょう、
最晩年は人にも会いたがらず
付き合いのある周囲へも
病の事は極力内緒にして欲しいとの
本人の希望だったので、
極近しい者以外へは知らされておらず
葬儀に参集下さった方達の口からは、皆
驚きとショックを隠せない言葉が漏れて
心苦しい、申し訳ない気持ちにもなりました。
葬儀委員長的な立場となったので
多くの恩人やゆかりの方に失礼が無いよう、
ちゃんと、最大限の感謝が伝えられるようにと
精一杯務めさせていただきました。
私は親族ではありませんが、
恩と縁の深さから
最後の最後、御骨を拾う事も、
その御骨をお寺へ納める法要へも
ご一緒が許して戴けました。
まさか
一週間で二人の御骨を拾う事になるとは
思ってもみなかったので・・・
上手く言葉にできない
何とも言えない気持ちでおります。
納骨時の、お寺様のお話にもあったのですが、
人生とは、人の一生とはそういうものです。
朝、元気な顔で家を出ても、
晩には白骨となる事もあるのです。
自分自身もそう思い、心掛け、
無駄な時間を過ごさぬよう、
周囲の人達を大切にし、
想い、
生きてゆかねばと思います。
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